私は私の欲望を宥めるような歌を聴き、詩を読み、思想に触れてきたが、自分から何も表出してこなかった。できなかったのではなくて、しなかった。自分で何も生み出さないでおいて、知った風にそれらで自分を慰めていただけだった。さらけ出すフリをする、理解しているフリを気取る、それこそが私の弱さだった。受け入れてもらえそうなところに縋って、期待して、その瞳のなかに希望の光を見いだした。恋人、友人、お父さんお母さん。日々の些末な出来事に、ぶつかって壊れるのが怖かったのでその欲望を隠すことも多く、それでいて、自分で隠しておいて、理解されないと怒りに燃えた。残念、と彼らを哀れんだりもした。残念、残念と人に吹聴した。
お前は一体何がしたいんだ、と友人に詰め寄った言葉は、そのまま私自身への伝言だったのに。
これではだめだ。このままだと一人で食べ難いし歩き難い。一人でできるようになるまでは、とんでもなくみっともないことになるだろうが、私は他人の人生になってしまった私自身の欠片を回収しないといけない。そのためには、他人に縋り付いちゃいけなくて、ちゃんと「返してくれ」って言わないとダメなんだなあ。とてもおそろしいことだわ。誰も私の葬式には来てくれなくなりそう。だけど、それがどうした。どうせ、もう壊れているんだ。
最近、目と手は取り戻したと思う。けれど、わからない。思ったような素描ができないからこれはまだ私の手ではないのかも。いや、イメージが間違っているのか。すると、アタマが私のものじゃないのか。右手に箸を持って、左手にお茶碗。箸でご飯をつまんで口へ運ぶ。タイミングと協調性が大事だ。今迄普通だったことが、気づいてみるととても難しいことのように感じる。嗚呼、混乱するよ。けれど、やっぱりこのままでは一人で歩くのには不自由だから、明日彼女に会ってその瞳に伝えよう。
「好きだよ。そして、私の足を返して」
