Archive for the ‘雑記’ Category

ヒューゴ

2014/03/27

『ヒューゴの不思議な発明』を友人宅で観たときのこと。友人はすでにこの映画を観ていたので、ひとりで鑑賞していたのだけど、中盤あたりから同じシーンが繰り返されたり、唐突に終盤の場面が出てきたり、また過去の場面に戻ったりして、すごい展開をしだした。私は「おお、挑戦的な映画なんだな」と思いがんばって観ていた。結局、穏やかで説得力のあるラストシーンを迎えて映画が終わり、私は満足した。思わぬ展開とラストシーンが面白かったと友人に伝えると、「そんな変な映画じゃないよ。DVDが壊れてたんでしょう」とあっさり言われてしまい、実際その通りだったので複雑な気持ちになった。

たとえ本来のものとは違っていても、自分が観た『ヒューゴ』が好きだ。主人公が時計仕掛けになってしまう夢のシーンが繰り返されたときには〈夢のなかの夢〉を体験しているような感じがしたし、ひとの心が開かれる瞬間をうつした短いラストシーンは感動的だった。他の人と共有するのはむずかしいけれど、自分にとって本当なのだから別にいいじゃない。それはまあ、そう思う。パソコンが落ちるまでひたすらたくさんの曲を流し続ける前衛音楽家の名前は何だったかしら。偶然と無秩序のなかのうつくしさ。あれみたいでカッコイイじゃない。本当はそんなふうに思いたかったけれど、さすがに壊れたDVDを何の疑いも持たずにじーっと見続ける自分の姿を思い浮かべると間抜けで、ちょっとやるせない。

その後、きちんとした方の『ヒューゴ』は観ていない。

3ヶ月

2013/07/03

東京から那覇に引っ越して3ヶ月が経った。なんだかんだで那覇宅を留守にすることが多くて、実際に住んでいる期間は半分くらいだったのだけど、家でネットもできるようになったし、ゴミを出す曜日もおぼえたし、部屋も汚くなるしで、だんだんと生活している感じが出てきた。東京の仕事を辞めてからはプー太郎なので、基本的に毎日だらだらと過ごしている。朝起きてだらだら、洗濯してだらだら、音楽聴いてだらだら、買い出しに行ってだらだら...。だらだらが板についてきている。沖縄はもうずっと溶けそうな真夏日が続いていて、私の脳みそも腐って溶けてこのまま孤独に死んでいきそう、とか思ったりする。

今朝、部屋の壁に見たこともない形の大きな蜘蛛がいてびっくりした。前に地元の人が「この時期は変な蜘蛛が出るよ」と教えてくれたことがあった。そいつかもしれない。少し透き通った淡い色の蜘蛛は、放っておいたらいなくなっていた。昼、近所のパン屋のおばちゃんに勧められた「冷やしホワイトチョコがけクロワッサン」が美味しかった。夕方、靴のなかに尻尾の切れたヤモリがいた。逃げ足が滅茶苦茶速くて、ポカンとしてしまった。夜、東京の夫と電話。仕事が忙しい様子。夕飯はポトフとのこと。4月に買った白いブーゲンビリアが一度散って、また咲いた。

私は。

自分の孤独が、すごく懐かしくて、愛しい。寂しさや焦燥や罪悪感もひっくるめて、私を圧倒する。何を食べてもいい。何を飲んでもいい。どこへ行ってもいいし、行かなくてもいい。これから会う誰かと仲良くなってもいいし、ならなくてもいい。自分の身体のまわりの自由。自分の身体のまわりの幸福。胸がいっぱいになる。明日はあの人に会ってみようかな。

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赤い花

2012/10/24

祖父のデイサービス仲間の一人に、第二次大戦下にビルマで戦ったTさんがいる。祖父は沖縄戦で兄を亡くしているため、Tさんとは戦争の話をよくしているようで、私が地元に帰省したときに彼について話してくれた。Tさんは何度も遠いビルマの地で見た花について祖父に語ったそうだ。祖父曰く「戦況がどんどん悪(わる)なって、Tさんが “もうあかん、死ぬ ”と思たときに見たらしい。真っ赤な花が、絨毯みたいにぎょーさん咲いとって、それが忘れられんっちゅうとった」。そして、花の絵を描いて祖父にくれたそうで、祖父は「これや」と言って便箋を私に見せた。そこには、ケイトウのような赤い花と黄緑色の太めの茎、縦長の葉が色鉛筆で描かれており、「だいたい30センチくらい」とか「綿毛みたいな花弁」とかメモ書きもあった。ケイトウじゃないのかと聞くと、どうも違うらしい。私は祖父からその絵を貸してもらい、インターネットで検索し、1時間もかからずにいくつか有力情報を見つけだし印刷して、翌日祖父に渡した。祖父は「ありがとう」とだけ言って、印刷した紙を鞄にしまい、それきりになった。私、私はとても恥ずかしい。頼まれもしないくせに、祖父に自分の合理性を押し付けたことが。そのことを良かれと思った自分が。他人や自分のなかにある間隙を何か手軽な言葉や方法で埋めようとする心が。赤い花の名前なんて、どうでも良いことなのだ。花はTさんの心に生きていて、それを想う祖父の心に生きている。それを尊いというのだ。バカ!

サムホール大賞展

2012/09/19

西脇市サムホール大賞展に入選しました。ヤッター!

サムホール、というのは22.7×15.8cmの芸術作品こと。個人的に公募展というとあまり見応えがないようなイメージがあるのですが、この展覧会は面白い作品が多く、展示の仕方もシンプルだけど工夫があったように記憶しています(見に行ったのは10年以上前です)。審査員には西脇市出身の横尾忠則さんも入っているそうで、審査風景も好いカンジ。ついで、というには不便な場所にある美術館ですが、もし興味がある方は是非足を運んでみてください:)

  • 展覧会名:第9回全国公募西脇市サムホール大賞展
  • 展覧会期:2012年10月14日(日)~11月11日(日)
  • 場  所:西脇市岡之山美術館
  • 入  館  料:会期中無料

※上の写真は西脇市岡之山美術館のブログから拝借しました。

ブルー・リッジは勝手に帰る

2012/03/18

私は日本海に面した山陰の港町で生まれた。冬の寒さは鬱陶しいが、海あり山ありの自然豊かな町である。その港は漁港としてだけでなく、戦時中は軍港として栄えていたらしい。祖父が地元の造船所で人間魚雷が造られていた話をよくしていた。今でも港には、灰色のボディに軍艦旗がたなびく海上自衛隊の艦船が浮いている。それが町の日常、いつもの風景。

私の両親はそんな町に住むいわゆる“左翼活動家”で、幼い頃からその「運動」を見てきた。はじめてデモに参加したのは4、5歳の頃だったと思う。

今でも憶えているのは、ある夏の日のデモ。「ブルー・リッジ、帰れ!!」という父が描いたスローガン。「ブルー・リッジ」が何なのかわからず母親に聞くと、 それは「たくさんの爆弾を積んで、たくさん人を殺せる戦争の船」で、さらにそれが「アメリカから自分たちの町に来ている」のだと教えてくれた。大変である。 そんな悪いものに来てもらっては困る。私は大人たちと一緒に「ぶるーりっじ、かえれー!」とコールした。そうすると両親に喜んでもらえそうだったし、何より正しく世の中のためになると思った。幼い私にとって、ブルー・リッジ(米第7艦隊旗艦)は反抗すべき「権威」であり、両親は正義の味方で、同時に私を導き支配する「他者」だった。

さて。

25年経って、あの日のデモは一体何だったのか。ブルー・リッジにとって、両親にとって、そして私にとって。

ハッキリとわかることは、あのデモが「ブルー・リッジが港を出ていく」ことに、ほんの少しも効力を発揮しなかったということである。所詮、30〜50人くらいのパーティーだったし、たとえもっと多い人数だったとしても地元のニュースで採上げられるのが関の山だったろう。矛盾だらけの世の中を変えたい、苦しむ人を救いたい、そのために何かをしたいという気持ちは美しい。けれど、今の社会で「運動」するということは惨めな「結果」を生みやすい、というか生むようにできている気がする。己の無力さと惨めさに跪くしかないようにできている気がする。怒っても嘆いても、それが私たちの住む政治経済社会のシステムなんじゃないかと思えてしかたがない。

私は、あの日の両親に言いたい。デモに参加することに美しい意味づけなんてしないでほしい、と。あのデモの影響下にあったのは、ブルー・リッジなんかじゃなくて、幼い私だったよ、と。あなた達のイデオロギーを真剣に受け止めたのは、あなた達の子どもだった。ブルー・リッジは、全然あなた達の言うことなんか聞いちゃいないし、ベトナム戦争や湾岸戦争の時のように、今もどこかで沢山の人を殺しているかもしれない。

でも、だからって何も終わりじゃない。嘆かないでほしい。あなた達が選んだことを見て、感じて、考えて、子どもは自分の道を選んでいく。それでいいじゃないか。

昨年の原発事故以来、私の住む東京でも大規模なデモが行われている。私はあの幼い日のデモを思い出し、主張や抗議の仕方が似ているなあと思う。同じデモというカタチだから当然だが。

「放射能から子どもを守れ」「脱原発」「東電は賠償しろ」そうだ!そうだ!大賛成だ!!

—— けれど、思うことがある。仮に「苦しんでいる誰かのために、不幸な世の中を変えたい」とデモに参加する人たちがいるとするなら、彼/彼女らは、日々の暮らしのなかで「運動」の「結果」をどう受け止めるのだろうか。きっと真摯な人ほど絶望することが多いのではないか。果たして、本当に被害者は救われたか。テレビで流される情報は変わったか。気軽な茶飲み友達や会社の同僚は変わったか。デモやインターネットから離れても暮らしの中で放射能を話題にできているか。どうだろう?

「運動」はチープに終わるようにできている(”Carnivals come cheap”)。私がデモに参加するなら、自分のためだけに行こうと思う。自分は「権威」からも「他者」からも自由になって、感じたり考えたりしてもいい存在だと、己を肯定するためだけに。私は決して「世の中を変えるため」「苦しむ人のため」とは言わない。25年前の両親や私のように、そう叫ぶ自分に酔いしれてしまうから。

また、デモでなくとも、自分の手の届く範囲で「運動」はできるんじゃないかと感じている。例えば、放射能汚染なんて全く気にしていない友人や会社の同僚に「子どもが欲しくて関東を出たいと感じている」とか「放射能汚染が気になるから毎日弁当を作るようになった」とか、思っていることを伝えているとき。私は、周りにいい顔をして迎合しそうになる自分と戦っている。そうやって、自分の弱さを自覚して、乗り越えて、自分を救って、自由になろうとするとき、自分の「運動」を感じるのだ。

そんな小さな「運動」が周りの人に肯定的に受け止められていたのは、昨年の原発事故後一ヶ月間くらいで、今ではなだめられたり、無視されたり、苛つかれたり、変な目で見られることも多い。コレは正直結構キツいし、エネルギーがいる。同じ思想を持つ人が結びつくなら、デモやツイッターやフェイスブックでいい。同志はすぐに見つかるだろう。私の生活のなかにあるものは、必ずしも政治的な思想とかイデオロギーで結びついたものではない。長く左翼活動家である「他者」とともに生き、どちらかというと「権威」に問題意識を持ってきた私だが、思い返してみると、仕事や友人との関係の中ではそうしたイデオロギーのつながりを避けてきたように思う。そんな私が、デモのような一過性の限局的な空間ではなくて、連続した生活のなかで自分を変えたいとき、周囲の人の戸惑いを招くのは当然だと思う。相手にしてみたら「急にどうしちゃったの?」という感じだろう。エゴイスティックなことをしている自覚は十分にあるけれど、私は私の思っていることを伝えていくことしかできない。

私は、自分が正しいと言いたいわけじゃなくて(というか自分が正しいなんてこれっぽっちも思ってない)、同じ空間にこういう選択をする人間がいますよってことを知ってもらって、あわよくば話ができたらいいなと思っている。実際に、思想や価値観なんて全然違っているのに、驚くほど力まずに素直に話せる人たちがいるってこともわかった。

先日、関東を出ようと思っていることを伝えたら、大学時代の友人がこう言ってくれた。

「私は保守的な人間やから、あんまりピンと来(け)えへんけどな、アンタがいっぱい考えてるんは分かるよ。がんばってな」

私はこれまで自分が選んできたこと、これから選ぶであろうことに自信が持てず不安でいっぱいで、周りからも孤立したような暗い気分になっていた。この友人にも話題を流されたり、「前の君に早く戻りなよ」と足をひっぱられたりするのかなあ、なんてビクついていた。そんなときにかけてもらった「がんばってな」という言葉。宝物のようだった。「戻らないって決めたなら、そんな浅いところで溺れている場合じゃないぞ」と言ってもらった気がした。本当に嬉しかった。

大事なのは、毎日仕事に行って、家に帰って、買って、 食べて、育てて、話して、遊んで、生活するなかで、お互いの差異みたいなものをどうやって生かしていけるかってことだ。誰かが誰かよりも正しくある必要なんてない。違っているからといって周りに背を向けていたら、自分を肯定することなんてできない。私の今までの人生、これからの人生を肯定していけるのは私自身しかいないのだ。背を向けずに、ちゃんと認識しよう。

それが私が見つけた「運動」だ。

ブルー・リッジと放射能のおかげで、今こういうふうに思っています。

Part Of Me

2011/12/14

私は私の欲望を宥めるような歌を聴き、詩を読み、思想に触れてきたが、自分から何も表出してこなかった。できなかったのではなくて、しなかった。自分で何も生み出さないでおいて、知った風にそれらで自分を慰めていただけだった。さらけ出すフリをする、理解しているフリを気取る、それこそが私の弱さだった。受け入れてもらえそうなところに縋って、期待して、その瞳のなかに希望の光を見いだした。恋人、友人、お父さんお母さん。日々の些末な出来事に、ぶつかって壊れるのが怖かったのでその欲望を隠すことも多く、それでいて、自分で隠しておいて、理解されないと怒りに燃えた。残念、と彼らを哀れんだりもした。残念、残念と人に吹聴した。

お前は一体何がしたいんだ、と友人に詰め寄った言葉は、そのまま私自身への伝言だったのに。

これではだめだ。このままだと一人で食べ難いし歩き難い。一人でできるようになるまでは、とんでもなくみっともないことになるだろうが、私は他人の人生になってしまった私自身の欠片を回収しないといけない。そのためには、他人に縋り付いちゃいけなくて、ちゃんと「返してくれ」って言わないとダメなんだなあ。とてもおそろしいことだわ。誰も私の葬式には来てくれなくなりそう。だけど、それがどうした。どうせ、もう壊れているんだ。

最近、目と手は取り戻したと思う。けれど、わからない。思ったような素描ができないからこれはまだ私の手ではないのかも。いや、イメージが間違っているのか。すると、アタマが私のものじゃないのか。右手に箸を持って、左手にお茶碗。箸でご飯をつまんで口へ運ぶ。タイミングと協調性が大事だ。今迄普通だったことが、気づいてみるととても難しいことのように感じる。嗚呼、混乱するよ。けれど、やっぱりこのままでは一人で歩くのには不自由だから、明日彼女に会ってその瞳に伝えよう。

「好きだよ。そして、私の足を返して」

蜘蛛女の顔

2011/07/12

障がい児向けの機能療法士という仕事柄、母子と接することが多い。最近は父親と話すケースも増えたが、9割は母親が子どもを連れて来るので、1年に1000回くらい母親と会う。

母親。母親というのは、本当にすごい存在だと思う。彼女たちは、時々こちらが面食らっちゃうくらいに自分の子どものために身を投げ打とうとする。実のところ、働き始めて数年は、この〈身を投げ打つ母親〉という存在に面食らってしまっていた。もちろん全員という訳ではないけれど、自分の子どものためになら平気な顔をして嘘もつくし、ルールも無視する。自分の子ども以外はどうでもいいと言わんばかりその様子は、どの親子も平等に扱わなければいけない立場としては正直こわかった。疲れていた。

そんな時期に毎日のように見たのが蜘蛛女の夢だった。夢で、はじめ蜘蛛女は普通の女の姿をしている。私はそいつを見て直感的に「蜘蛛女や!」と気づくが、周りの人は誰も気づいておらず、そいつはニタ、と妙な感じに笑いかけてきたりする。そして二人きりになった途端に、顔は人間の女、首から下は毒蜘蛛の蜘蛛女に変身して襲いかかってくる。ホラーとしてはベタだが、口が裂け、黒い髪の毛を振り乱して襲いかかってくる蜘蛛女はなかなかの迫力で、目の前に女の顔が迫ったところでいつも目が覚める。

夢分析をしてもらうまでもなく、夢の発端は〈母親〉だと思っている。この夢を見ていた時期には、実際に母親に関する悩ましいことがいつくかあって、私はああではない、ああはなりたくない、ああはならないと思っていた。蜘蛛女から攻撃される自分。蜘蛛女から距離を置きたい自分。私は、愛するもののために他者を顧みず、盲目的になるという道ではなく、巧く折り合いをつけて奇麗に行く道はないだろうかと考える人間だった。私は総てに対してフラットに接したかった、ヒューマニストでありたかった。孤独になりたくなかった。

でも、いくつかの出来事を経てみると、愛することが根源的に醜い部分を孕んでいることを認めざるをえなくなった。Love Is Evil。愛するということは、博愛主義の美しさなどではなくて、愛するものを差別的に選択することで成り立っている。私には愛するものと距離を置き続け、他と折り合いなどつけることなどできない。

夢の中で、私は蜘蛛女の存在にすぐに気がついた。それは、他でもない私の中に蜘蛛女が〈在る〉からだ。蜘蛛女の顔は髪にかくれて見えなかったが、「正しく美しく生きて、それがなんだというのか?そんなのいつまでもやってられないよ」と私を嗤う顔があったかもしれない。そして蜘蛛女の顔は、私自身の顔だったかもしれない。

正しく美しく生きて、それがなんだというのか?そんなのいつまでもやってられない。どんなに醜かろうと、髪を振り乱して愛する蜘蛛女の道。その道を行くんだ、君と笑顔で。


写真:http://kumomushi.web.fc2.com/h_j/jorou.htm

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2011/03/11

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